第玖話 真義






 銀時が出て行った直後だ。広間は、不自然なほど静かだった。誰もが身じろぎ一つせず、誰かが声を発するのを待っていた。それでいて、誰かが何かを言うのを、恐れていた。しばらくの沈黙の後、桂が呟いた。
「坂本に続いて・・・銀時まで技けてしまった・・・・・・」
 そう言って肩を落とし、項垂れる。高杉は、桂の前に立った。
「これからどうすりゃいいんだとか、思ってんだろ?」
「当たり前だ!大事な柱が二本も技けて・・・」
 一度顔を上げた桂は、唇を噛みしめて、また俯いた。高杉は、そんな彼を冷たい目で見下ろしている。それでもどこか、その目は優しかった。高杉は、口だけで笑った。
「じゃあいっその事、テメェも抜けるってのはどうだ?」
「・・・・・・は」
 この言葉に、桂は信じられないといった顔つきで、高杉を見た。彼はまだ笑みを絶やさずにいる。
「・・・・貴様、何を・・・」
「言葉の通りだ。意味分かんだろ?」
「・・・・・・何故、そんな事を」
 それには答えず、高杉は、桂から離れて座った。視線はどこか宙を眺めている。そのまま、彼は口を開いた。
「・・・ヅラァ、テメェはいつも肝心な事を言わねェよな」
「肝心な事・・・・・・?」
 怪訝そうに高杉を見る桂に、高杉は鋭く、それでいて何処か危惧したような視線を送った。
「抜けたいんだろ?」
「・・・・・・・・・!」
 桂が目を見開く。
 勿論桂がそんな事を言ったことなど、過去に一度も無い。しかし、その高杉の言葉は、桂の心中を的確に捉えていたのだ。
 坂本が抜けると言い出した時から、この戦に対する違和感は感じ始めていた。天人は江戸にとって忌むべき存在であることは間違いない、だが幕府は己の私腹を肥やすために、それを野放しにしている。許せることではないのだ。しかし、それに抗うことはつまり、国をも敵に回すということ。そんな危険を、自分以外の者に冒させてもよいのだろうか。この軍の中には、坂本のように松陽先生の教えを受けていない者もいる。その者と自分では、幕府に対する憎しみの種類が違うのだ。己の方が、醜い。同じ志を掲げているなどと言うのは、傲慢ではないのだろうか。
 以前、戦の最中に銀時に言われたことがある。美しく最後を飾りつける暇があるなら、最後まで美しく生きようじゃねーか、と。己の命など、惜しくはないという気持ちは今も変わらない。だが生き延びることが運命ならば・・・この命、仲間を生かすことに使っていきたいと思ったのだ。美しく散るために、俺はそうやって生きていきたい。そのためにはまず、自分がきっかけを作らなければならないのだ。
「攘夷に飽きたか?」
「そんなわけがなかろう!」
「でなきゃ、俺と組むのが我慢ならねェか」
「それも違う」
「じゃあ何でだよ」
 桂は視線を外して、辛そうに目を閉じた。伝えなければならない。高杉にも、分かってもらわなければならないことなのだ。
「坂本や銀時と・・・・・・同じだ」
「・・・・・・あ?」
「攘夷は実行すべき行動だとは思う。しかし、天人の武器は今の俺たちでは太刀打ち出来ない物だ。それと今刀を交えれば、無駄死にするようなものであろう。だから・・・・・・もし貴様が、時間を置き、武器や人員を揃えてから戦に臨むと言うのなら、俺は喜んでそれに参加しよう。でもそれが出来ないなら・・・・・・俺は此処を去りたいと、思う」
「これ以上、仲間が死ぬのは見たくねェってか」
「ああ、そうだ」
 桂の強い返事に、高杉は吐き捨てるように嗤った。
「何がおかしい」
「いや、てめェら皆甘ちゃんだなァと思ってよ」
「・・・・・・?」
 高杉の真意を読み取ろうと、桂は彼を見つめた。しかしそれを避けるように、高杉は天井を見上げた。その瞳は誰かを捜すかのように遠くを彷徨い、やがて一点で静止した。
「なあ、ヅラァ」
「何だ」
「俺達が、戦を始めたのは・・・・・・何でだったっけな」
「・・・・・・え?」
 高杉の声には、悲痛な響きが混じっていた。当たり前だ。桂は唇を噛みしめた。自分達が立ち上がった理由、それは今でも、彼らの心を深く突き刺すのだ。
「元々、昔の志士たちのように攘夷への想いが強かったわけじゃねェ。勿論幕府に不満があったのは事実だが、別に討幕を決意するほどでもなかった。でも、俺達は進んで兵を挙げた。何でだったか覚えてるか?」
「それは・・・・・・松陽先生の・・・・・・」
「そうだ。俺達はただあの人を慕って、その思いだけでここまでやった。斃れていく奴らを視界から外して、ただただ前に突っ走ってきた。それが本当に正しかったのか・・・・・・松陽先生が本当にそれを望むのかは分からねェ。でも俺にはこういうやり方しか出来ねェんだよ」
「・・・・・・高杉」
 高杉は目を閉じて、俯いた。
「己の身体がどうなろうとかまいやしねェ。ただぶっ壊すだけだ」
たとえ何を失ったとしてもな。最後にそう、高杉は付け加えた。
「貴様・・・・生きたいとは、少しも思わんのか?」
「生きたい、ねェ・・・・」
 桂の問いに、高杉は肩を揺らした。その笑い声はどこか諦めたような色を含んでいて、桂は胸に鈍い痛みを覚えた。
「あの人を奪ったこの世界で生きていく意味なんて見つけられるわけがねェし、もとよりその気もねェよ」
「・・・死に場所を、探しているのか」
「さあ・・・・どうだろうな」
 桂はこの高杉の返答を、肯定と受け取った。と同時に、畏敬の念を強く抱いた。自分にとっても松陽先生は随一の存在だった。己の全てをかけて慕っていたと思い込んでいた。だが、ここまでだっただろうか。この男のように、この身、散らしてまでも景仰すという覚悟が、己にはあったであろうか。
「・・・・テメェには、あるんだろ?生きていく意味ってのが」
 いつの間に顔を上げていたのか、高杉が問いかける。その顔面は、心中が読み取れないいつもの薄い笑みが覆っていた。
「意味、か。・・・・・・ああ、ある」
 腐ったこの世界から、大事なものを守っていくこと。それこそが、己の生きていく意味だと、桂は言った。
「うらやましいもんだな。ま、頑張れよ」
「・・・・貴様もな」
 桂は立ち上がって、高杉の前を、通りすぎた。高杉はその笑みを崩すことは無かった。



 閉め切ったままだった窓を、少し開ける。朱色の光と、穏やかな風が入り込んだ。中はこんなにも澱んでいるのに、外はどうしてこんなにも澄み渡っているのか。一体どちらが本当の世界ってヤツだ?高杉は眉間に皺を寄せながらもしばらくその光を見つめていたが、とうとう窓を閉め切ってしまった。そして、部屋に背を向けたまま、口を開く。
「お前らも、技けるなら今のうちだぞ」
 後方がざわめいた。高杉が怒っているのか、許してくれているのか、どちらか分からず戸惑っているようだった。高杉が続ける。
「心配しなくても、怒っちゃいねェよ」
「いえ、僕たちは高杉さんを支えます!」
 一人、立ち上がった気配がした。続いて、残りの浪士達も立ち上がり、高杉の周りに集まった。
「俺達、まだやれます!」
「共に・・・戦わせて下さい」
 高杉は振り返った。その顔からは笑みが消えている。
「・・・テメエら、俺の一番嫌いなもん知ってっか?」
「え?」
 高杉は鋭く彼らを睨み付けた。皆、たじろぐ。
「同情だ」
「同情だなんて・・・・・・そんな」
「それ以外の何だってんだァ?旧友に逃げられて可哀相って、顔に書いてあんぞ」
「違います!高す・・・」
「んな奴らに用は無ェ。出てけ」
 冷たく言い放たれたその言葉に、浪士達は口々に抵抗した。しかし、普段より数倍にべもないその態度に、ついには黙り込んでしまった。
「早く行かねェと日が落ちる。さっさとしろ」
「高杉さん!」
 そう言って高杉は立ち上がり、奥の小部屋へと去っていってしまった。
 残された浪士達は、支度を始める以外仕方がなかった。俺たちが弱いから見限られたんだ、と悔いる者もいた。話しかけづらい雰囲気を纏っていた高杉ではあったが、皆その大胆さに心惹かれていたのだ。付いていきたいと思ったのは、本当だった。だが迷いがあったのも事実だった。その己の弱さが情けない。浪士達の瞳からはとめどなく涙が零れ落ち、それは屋敷を出るまで止まることはなかった。



 山茶花の花弁が、足元を紅く染めている。空は昼間にも関わらず薄暗くて、今にも泣きだしそうだった。
 高杉は、ひたすらに地面を見つめていた。土壌は良くないにも関わらず、この花はこの間まで美しく咲いていた。そう、あの日までは。

「高杉、ちょっと来い」
「なんだよヅラ。俺は今それどころじゃねェんだ」
「いいから、来い」
「うっせーな、俺は先生を待ってんだ。もうすぐ帰ってくんだろ?だから・・・」
「高杉」
「しつけェよ。だから俺は・・・」
「先生が・・・・・・お亡くなりになった」
「・・・・・・は?」
「幕府の仕業だ。先生を騙して捕らえた後、斬首に」
「・・・・・・」
「今塾内は騒然としている。とにかく来てくれ、高杉」
「・・・何言ってんだァ?ヅラ」
「何がだ?」
「先生は死んじゃいねェよ。だから俺はここで待ってる。先生は疲れてんだろうから、出迎えんだよ」
「・・・・・・高杉」

 翌日には、山茶花の花は全て、その命を終えていた。しかしまだ、その死骸は美しい紅色を保っている。だから高杉は、毎日ここへ来ていた。桂が何度も止めたが、聞く耳を持たなかった。
 先生が心を込めて育てた花が散った。先生が守っていたものが壊れた。寿命だったのかもしれない、だが、それだけではないと高杉は思っていた。土壌が木を駄目にしたのだ。いくら水をやっても、土にそれを吸収する能力がなければ意味がない。高杉は花弁を丁寧にどけて、土に触れた。がさがさとしたそれは、高杉を拒絶しているかのようだった。引っ掻いてみても、削れはしない。叩いてみても、びくともしない。高杉は、奥歯を噛みしめた。この土が先生を奪った。守ろうとした、先生を飲み込んだ。悪いのは、この土だ。
 そしてこの   世界だ。
 地面に、水滴が落ちた。ああ、ついに降ってきた。高杉は上を向いて、雨に打たれるがままになっていた。熱を持っていた目頭が、冷えていく。それに反比例するように、高杉の心には熱い何かが宿っていった。


   これは、義戦である!腐った幕府を、叩き潰すのだ!」
「ヅラー、ちょっと気合入りすぎじゃないの?張り切りすぎると足つるよ」
「ヅラじゃない、桂だ。そんな心構えでは勝てる戦も勝てんぞ、銀時!」
「ヅラはお母さんみたいじゃのー」
「坂本まで何を言っている!今は幕府を倒すことだけ考えろ!」
「・・・そりゃちょっと違うな、ヅラァ」
「どういうことだ?高杉」
「幕府みてェなちっせーもん潰しても意味はねェ。俺達は、世界をぶっ壊しにいくんだよ」




    いつの間に眠っていたのだろう。もうすっかり日は落ち、窓から覗く空には月が白く光っていた。
 あいつらは、暗くなる前に町へと出られただろうか。ちゃんと傷の治療をしてもらっているだろうか。彼らはこの戦に参加するには純粋すぎた。これからはまっとうな道を生きていってほしいと、高杉は静かに願った。
 そこでふと、あの三人のことを思い浮かべる。もう二度と会うことは無いかもしれない三人。その事実は、少しだけ高杉の胸を刺した。
「結局皆、『仲間』ってのが原因で離れてったなァ」
 仲間とか同志とか、その程度のものだったのだろうか?少なくとも高杉はそうは思ってはいなかった。もっと何か・・・強い絆とでも言えばよいのか。そういうもので繋がっているのだと感じていた。でも、結果的には独りである。自分の愚かさを嗤わずにはいられない。高杉は、空に浮かんだ月を、しばらく見つめていた。
「・・・・・・俺だって、一番言いたかったことが言えてねェじゃねーか」
 その月は、高杉を慰めるかのように、優しく彼を照らしていた。