第弐話 玉響






    すうっという遠慮がちな襖の音と共に、薄く光が漏れ出してきた。こんなに静かに教室に入ったことなんてなかったし、当時はもっと日当たりがよかったように記憶しているから、銀時は面食らって、暫し足を止めてしまった。背が高くなったからなのか、それとも誰もいないからなのか。理由は定かではないが、机が取り払われたこの部屋は、彼の目にひどく暗く映った。
「机が無いと、案外広いもんだな」
 銀時は部屋に入ると、襖をゆっくりと閉めた。途端に懐かしい香りが鼻を掠めて、彼の顔は複雑そうに歪んだ。
 幸せな記憶は、時に残酷なものへと姿を変える。全てを終わらせてしまった今の彼に、それを受け入れる余裕は無かった。
 ひとつため息を落とすと、無言のまま、銀時は歩を進めた。
 確か、一番後ろの席だった。望んでそうしたか、先生の計らいだったかは覚えちゃいない。ただ快適だったと、それだけ記憶している。毎日毎日居眠りばかりで、先生呆れてたよなあ。ヅラにもいっつも怒られてたっけ。
 幼い頃の記憶の引き出しを少しずつ覗きながら、銀時は自然と微笑んでいた。確かにあの日までは、幸せな日々を過ごしてたんじゃないか。それを悔やむ必要がどこにあろうか。この教室で過ごした軌跡は、無理に心の底に隠しておく必要など全く無いのだ。
「ここら辺、だよな。・・・よっこらせ」
 自然と飛び出た言葉に、年をとったもんだ、と苦笑する。
 そうだ、もうあの頃のようには若くない。自分の思うがまま、本能のままに生きる体力も、気力も、もう手にすることは出来ないだろう。これからもきっと、ずっと。
「高杉は・・・確かあのあたりで、ヅラは・・・あそこかな」
 授業中、ほとんど寝こけている銀時ではあったが、たまに起きているときもあった。その時は勝手に障子を開け放って外を眺めていたり、他の生徒の背中を観察したりしていた。大体の生徒がある程度真面目に授業を受けている中、桂は背筋をぴんと伸ばし、一方の高杉はだらりと背中を丸めていたため、後ろから見ると非常に目立ったのだ。
「あの頃から、ずっと変わっちゃいねえな」
 今でも二人は、その特徴を維持したままだ。
 何だかおかしくなって、銀時は笑った。外見やその他の部分が変わっても、やっぱり芯のとこは変わんねえもんなんだな。
「先生だって、そうだったよな」
 共に過ごした期間は驚くほど短い。だがその一時には、実に様々なことが起きた。その中で彼の人は、一度も揺らがなかった。ただひたすらに、日本の未来を見据えて、穏やかに微笑んでいたのだ。幕府や天人などは、きっと彼には見えていなかったのだろう。

    あの日までは・・・あの日までは、それが唯一の誠だと信じていた。

「・・・先生の立ち位置は、あそこだ」
 銀時は、前方の一点を見据えた。
 所有者を失ったその場所は、どこか居心地が悪そうに存在しているように見えた。