第肆話 夜叉 もう日も暮れようかという時間帯だからだろうか、人の気配が全くない。普通なら恐ろしいと感じてもおかしくない光景だが、銀時の目にはただ新鮮に映った。赤くないものを見る、という当たり前のことさえ、彼にとっては久々だったのだ。 物珍しそうにきょろきょろと辺りを見回す銀時を見て、松陽はくすりと笑った。 「気に入りましたか、銀時」 「・・・別に、ふつう」 「今日からここが君の家です。そして君は、私の息子だ」 銀時は怪訝な表情で、松陽を見上げた。 「俺は、あんたの息子じゃないよ」 「ああ、ごめんなさい。私は教え子のことを息子のように思っている、と言いたかったんですよ」 そう言うと、松陽は庵の引き戸に手をかけた。からからと響く戸の音に銀時が身構えると、松陽はまた笑った。 明日からは、他の生徒と同じように勉強をしてもらいます。そう言い残すと、松陽は自室へと去っていった。出会ってまだ数時間の人間に、一部屋あてがうなんて変な人だと、銀時は襖をしばらく見つめていた。 勉強なんて嫌いだし、他の生徒と仲良くしたいとも思わなかったが、銀時はここを離れる気にはなれなかった。血の香る故郷に帰りたくないというわけではない。安らげる場所を見つけたというのも違う。ただあの男、吉田松陽という男のことをもっと知りたいと思ったのだ。そしてあの男が言っていた「己の魂を護る」のがどういうことなのかを、知りたいと思ったのだ。 「・・・ねむい」 難しいことは、また明日考えればいい。銀時はごろんと寝転がると、そこが畳なのも厭わずにいびきをかき始めた。 「おはよう銀時、よく眠れましたか」 銀時が振り向くと、松陽が立っていた。手には本のようなものを二冊持っている。銀時はぶっきらぼうに言った。 「・・・厠は」 「厠はあっちです。用をたして朝餉を食べたら、教室へいらっしゃい」 ここですからね、と松陽が念を押す。早く厠に行きたい銀時は、さっさと話を終わらせようと、何度も頷いた。 「それから、これが教科書です。これを持ってくるんですよ」 「わかった」 銀時の返事に満足したように微笑むと、松陽は去っていった。銀時も厠に向かって歩き出す。受け取った本には、一瞥したきり見向きもしなかった。 「お前、なんで髪の毛白いんだよ」 一番後ろの席でうとうとしていると、生徒の一人が声をかけてきた。いつの間にか授業は終わっていたようだ。 銀時はゆっくりと顔を上げた。ふもとの人間のように怯えた顔はしていなかったが、好奇に満ちた目は彼らのと何ら変わりは無い。銀時は、何事も無かったかのように俯いた。 「おい、無視すんなよ」 「もしかして、妖怪だったりして」 至極楽しそうに、生徒たちは話を続けている。名乗るだけ、という愛想のない自己紹介だったから仕方がないのだが、彼らは銀時のことが気になるようである。 「なあ妖怪くん、何とか言えよ」 「・・・いい加減にしたらどうだ」 呆れたような声が、教室に響いた。銀時が声の方を見やると、長髪を高く結った少年がこちらを見据えている。もちろんその瞳は銀時ではなく、彼をからかっている生徒を捉えていた。 「桂、だってさ」 「だってじゃない。人の迷惑になることはしてはいけないと、先生に教わっただろう」 「でも・・・」 「文句があるなら、道場で聞こうか」 「わ、わかったよ」 桂にのされた経験でもあるのだろうか。銀時の周りに群がっていた生徒たちは、そそくさと帰っていった。 それを見て、桂と呼ばれた少年は困ったようにため息をついた。 「気を悪くしないでくれ。あいつらに悪気は無いんだ」 「・・・別に、慣れてるし」 「そんなの、慣れていいものではないだろう」 「でもお前だって、俺が妖怪だって思ってるんじゃねーの」 桂から視線を外して、銀時が答える。 桂は、銀時の小さな文机の前に腰を下ろした。そして、頬にかかる自身の長い髪の毛を見つめながら、言った。 「人と髪色が違うだけで妖怪になるなら、俺も妖怪だということになるな」 その反応に、銀時はちらりと桂を見る。確かに彼の髪の色も、他人より少しは明るいようだ。だからといってそんな返答が出来るものだろうか。 ここには変な奴ばかりいるようだ。銀時はそう思った。 「俺は桂小太郎。君は坂田銀時といったな。銀時と呼んでいいか」 「・・・どーぞ」 面倒臭そうに銀時は答えた。同時に後ろの壁に寄りかかる。昨日は結局よく眠れなかったのか、銀時の瞼は自然と下りていってしまう。 開け放たれた障子の向こうから差し込む陽光と、徐々に色づき始めた紅葉。予想通り勉強は面白くなかったけれど、ここにしばらくいてみるのもいいのかもしれない。 松陽抜きでもそう思えるくらいに、この場所は銀時を歓迎しているように彼には思えた。 「おい、銀時。こんなところで寝たら風邪をひくぞ」 まるで母親のような声色の桂の言葉を遠くに聞きながら、銀時は眠りに堕ちていった。 伍話へ // 戻る |